細菌戦の系譜!!

BS1731部隊

西山勝夫滋賀医科大学さんの解説

前編が、ハバロフスク裁判の音声記録や米ソとの関わりを中心とした部隊の設立の全貌について、後編が、自死したと伝えられる柄沢被告のご遺族や少年隊の方を中心とした内容で、隊員の素顔をお伝えしながら、彼らを取り込んでいったシステムについて伝える内容

ハバロフスク裁判は強制による虚偽であるまたは、731部隊の事実はなかった等の批判に対して、私たちがわかりうる範囲で、事実や資料を提示することに徹している。

後編においては、ひとりの医学者でもあった隊員が、人体実験に手を染めていったのはなぜかということをテーマとし、システムやお金等による強力な取り込む力権力に対して、あらがえない個人という、現代にも通じるものを感じながら、制作された。

731部隊

ABC企画委員会

NHKの解説

戦時中、密かに人体実験を伴う細菌兵器の開発を進めた731部隊。新たに発掘した音声記録と数百点の資料から、部隊がどう作られ、人体実験はどのように拡大したのか迫る。

番組内容

戦時中、旧満州でひそかに人体実験を伴う細菌兵器の開発を行った、731部隊NHKが発掘した、旧ソ連ハバロフスク裁判の音声記録では、部隊幹部らが、日本に反発した中国や旧ソ連の人を、実験材料としていた実態を克明に語っていた。731部隊はどのようにして設立されたのか。人体実験はどう拡大していったのか。そして米ソの対立の中で、731部隊の歴史はどう封じ込まれてきたのか。音声記録と数百点の資料から迫る。

スペシャ731部隊人体実験はこうして拡大した隊員たちの素顔前編

スペシャ731部隊人体実験はこうして拡大した隊員たちの素顔後編

NHKスペシャル731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験〜

1949年のハバロフスク裁判の録音テープが見つかった!!

731部隊について

731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験起こし

極秘で進められた731部隊の研究

その活動を公けにしたのが、終戦から4年後に旧ソ連が開いた軍事裁判、ハバロフスク裁判でした。

裁かれたのは、731部隊の幹部や関東軍の幹部ら12人。多くの医学者が日本へと引き上げた中、逃げ遅れ、ソ連に抑留された人でした。

この裁判はこれまで、ソ連が公表した文書しかなく捏造だと批判する声もありました。今回見つかった音声記録では部隊の中枢メンバーが人体実験の詳細を証言していました。

テープの音声検察側ロシア語

人体実験はどのようの行われたのか、できる限り詳しく話してください。

テープの音声731部隊衛生兵古都証人

昭和18年の末だと記憶しています。ワクチンの効力検定をやるために中国人、それから満人注満州人を約50人余り人体実験に使用しました。

砂糖水を作って、砂糖水の中にチブス菌を入れて、そして、それを強制的に飲ませて細菌に感染させて、そして、その人体実験によって亡くなった人は12〜13名だと記憶しています。

731の問題戦中戦後ー奈須重雄2018429

吉村寿人

戸田正三はじめ、京大東大の医学者の多くが731の仕事に係わった。そして戦後の日本医学界にも大きな影響を与えた。

731部隊で行われた人体実験細菌戦などは国家機密だったため、携わった医学者は誰一人声高に叫べず、自責の念のあるものは、自殺した。日本政府医学界は、731部隊の罪業を、いまだに反省謝罪していない!!

今の日本医学界に、この影響がないのだろうか???

清野謙治京大教授も、京都大学での愛弟子にあたる石井四郎が部隊長だった満州731部隊に対しては病理解剖の最高顧問を務め、人材確保指導などに異常なまでにてこ入れしたとされる。

清野事件

清野は、幼少の頃から考古学を趣味にしており、仕事の傍ら古人骨古文書民俗学資料などの収集に情熱を傾けていた。1938年に医学博士号を取得した直後、誠に奇妙なる精神状態のうえに収集癖が高じて、京都の古寺から教典や古文書を盗む窃盗事件を起こす。清野は逮捕され、控訴審で懲役2年執行猶予5年の有罪判決を受ける。このことから清野は京大を免職になったばかりか、濱田耕作京大総長も辞意を表明した。

記者会見研究者が戦争に協力するとき2018414(京都大学

1938年8人の京大研究者が731部隊に派遣される。

8人は石川太刀雄丸、岡本耕三、林一郎、田部井和、湊正男、吉村寿人、斎藤幸三郎、田中英雄

凍傷実験で有名な吉村は、日本学術振興会から研究資金が出ていた。

吉村の恩師は、正路倫之助軍医学校731部隊に指令を出していた所の嘱託。正路は1946年に、兵庫県医科大学の学長に就任する。そこに戦後、吉村、岡本、田部井が職を得る。兵庫県医科大学は、後に神戸大学医学部になる。

岡本は清野の弟子、田部井は木村の弟子だった。

戸田正三、木村簾両京大教授軍医学校嘱託は、戦後医学界として石井機関の医学者をかばったという理解は誤りで、医学界が守ろうとしたのは医学界そのものであった。医学者たちの組織犯罪常石敬一著より

戸田正三

長與は、1919年から1934年まで、東京帝国大学伝染病研究所の所長であった。1930年から長與はうつ病になっていた。

この1930年代初頭から、背陰河で人体実験が行われていた。

長與又郎

東大総長1934年〜1938年

総長退任後の1940年、満州渡航関東軍司令部や731部隊を訪問している。731部隊では研究を視察している。細菌学会等を通じ、石井四郎軍医と交流があった。

果して、長與は731部隊についてどのような思いを持ったのであろうか??

1938年昭和13年、文部大臣荒木貞夫から総長官選案を示されるも、大学の自治を守るために戦い、荒木の案を撤回させて総長を辞任。

民間情報部CIS)にSIと名乗る人物から届いた手紙には、

石井の妻が学習院院長荒木寅三郎の娘で、元陸軍大臣荒木貞夫と非常に親しく、彼から限りない助けを得ていた事実を述べている。

荒木貞夫と荒木寅三郎は、細菌戦戦争にどのように係わったのか?

1927年昭和2年石井四郎、荒木寅三郎の娘、清子と結婚する。

1928年昭和3年4月-1930年昭和5年4月、海外視察。本当に海外視察か?背陰河に行っていた可能性はないのか?

1936年昭和11年、東郷部隊が正式な部隊となる。東郷部隊を母体として関東軍防疫部を編成。

荒木寅三郎荒木は、京大総長時代に、娘を石井に嫁がせた後、学習院長や枢密顧問官をに出世している。京大総長1915年〜1929年、学習院院長1929年〜1937年、1937年4月枢密院顧問に親任される。1942年、急逝。

荒木貞夫日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。

道教育の推進1938年昭和13年5月26日に、第1次近衛内閣の文部大臣に就任すると同時に、皇道教育の強化を前面に打ち出した。国民精神総動員の委員長も務め、思想面の戦時体制作りといったプロパガンダを推し進めた。この頃から、軍部の大学学園への弾圧が始まり、人民戦線事件や平賀粛学に代表されるような思想弾圧が行われるようになった。

戦後の極東国際軍事裁判においては、文相時代の事柄にも重点が置かれることとなった。裁判の法廷において、証人として出廷した大内兵衛は、検事の尋問に応じて宣誓口供書を提出したうえで、弁護団の反対尋問で、軍事教育を通じて、軍部による学園弾圧が強化されていった過程を1938年、荒木貞夫文相の時、各大学における軍事教育が一層強制的となり、軍部の学校支配が強化された軍事教練は、荒木さんが陸相当時、東大で採用するよう要求があった。この時東大は拒絶したが、1938年に荒木さんが文相になった時、軍事訓練は強制的となったと証言している。

また以下の2人は731部隊の細菌戦を積極的に推し進めた中心人物ではないのか??

軍医学校長小泉は、陸相荒木貞夫の強い支持を受けていた。

1933年陸軍軍医学校校長、1934年陸軍軍医総監、陸軍省医務局長、BCG接種を実施、1941年から厚生大臣

小泉親彦

第5代伝研所長

宮川米次

1938年には国家総動員法が制定され、科学者も、戦争に協力しなければならなくなった。優秀な医学者も、戦争は加害者にしてしまう!!

731部隊で実験材料にされた人たちは、囚人ではない!!裁判にもかけられず、微罪で逮捕された人がほとんどだ!!中国は日本に侵略されたのだから、反発するのは当然だ!!

当時の日本の教育は、日本国民は1等国民、他は2等国民、とか3等国民とか呼び蔑視していた!!中国人はチャンコロと呼び、非人道的な扱いをしていた!!

笠原十九司日中戦争戦争全史下には以下の記述が見られる。

日本軍が華北で使用した生物兵器華北の民衆に深刻な犠牲をもたらした。細菌兵器使用の実態が判明しにくいので、統計は不完全であるが、日中戦争以後8年間で70回以上細菌兵器を使用したと推定され、そのうち具体的な死亡者がわかる25件では、兵士民間人47万人以上が感染して死亡した。山西省孟県における調査では、1942年から45年の間、日本軍が発射した糜爛性びらんせい毒ガス弾とチフスなどの細菌兵器により、全県16万人のうち、95が感染して病気になり、1万1千人が日本軍に殺害され、3万人近くが病死した。

731部隊員であった金子順一が戦後、東大に出した論文には、中国の6か所の地名が細菌戦の行われた場所として、書かれている。

また、戦後アメリカのフェル博士が731部隊員を尋問して作成したフェルレポートには、12か所で、細菌戦が行われたとある。

講演とつどい学問が戦争に協力する時731部隊の生体実験をめぐって

日本軍は、国際条約違反の細菌戦を大規模に行なった。しかし、日本政府は、731部隊での人体実験、細菌戦等の証拠をすべて隠蔽し、この事実を認めようとしない!!

番組では、川島清を第一部細菌研究部長としているが、第4部細菌製造部部長軍医少将の時もあった。

勿論731部隊支部や他の防疫給水部に送られ、人体実験に関わった多くの医学者がいた!!

中国にあった日本軍の陸軍病院の軍医等も、生体手術演習と称して、生体解剖をしていた。場合によっては、日本人も実験材料にされた。

この731部隊には、皇族の竹田宮が関わっていた。そして、研究費などの予算は昭和天皇の裁可がなければ出なかった。

天皇の弟秩父宮三笠宮も視察に来たし、もしかしたら昭和天皇も来たのではないか??昭和天皇の責任は無いのか???

unit731

731部隊へは当時製薬会社等からの寄付もあった!!大正製薬

ロ号棟を建設したのは大林組、松村建設、特設監獄は鈴木組が作った。

731部隊の設計図が1枚も見つかっていない!!建築学会でも731部隊は全く無視されている!!

アピール3大学研究機関における軍事研究を阻止するために広原盛明(元京都府立大学学長)

ロ号棟の建設について設計図を出してください!!

大林組白石社長が辞任へリニア談合で事実上の引責

黒い太陽731

国家戦略特区に獣医学部か、戦時中の100部隊や731部隊を想起してしまう!!

つまり、満州での人体実験や細菌兵器の開発は当時の総務司長であった岸信介の許可なしには行われなかったのであり、七三一部隊を率いていた石井四郎の背後で岸信介が実権を握っていた感がある。

みんなが知るべき情報今日の物語より

日本は皇道精神の具現化のために、毒ガス兵器、細菌兵器を使い、多くの人を虐殺した!!

目指したのは、天皇中心の世界帝国八紘一宇

教えてゲンさんより

1940年、日本軍資料

1942年の細菌戦

日本兵証言記録近喰秀大栄1644部隊第1課

医学と心理学のかけ橋に関する回想防疫医学第19巻第11号1972年から昭和17年10月中旬、中支浙江省義烏県松山部落注崇山村のことに不明疾患の爆発的発生があり、急速に拡大の傾向が見られているとの報告に接した。

わたくしはその頃南京の防疫本部に勤務していたが、

軍命により急いで臨時防疫隊を編成し現地に赴いたのである。

部落民の総数は約3000名で、この1週間以内に不明疾患に100名近く罹患し、30名近く死の転帰をとったということであった。

路地をはさんで各家の戸は堅く閉ざされ、扉の上や周囲の壁には煤や朱色の手形の印が塗りつけられ、所に疫神と書かれていた。

静寂で陰気な雰囲気につつまれて、何処からともなく選考の臭と煙の流れとが漂ってきた。

満洲天理村生琉里ふるさとの記憶

4、風間博の父が語った告白と息子の決意

風間の父は、ハルビンから南へ24キロメートルの地にある平房本部後に731部隊と改称。第4章で詳述の建設現場に借り出されていた。しかも、それは命令だけでなく、自ら率先してのことである。破格の給金に信者たちの心は動いた。

男たちは、皆行きたがった。だから2週間から3週間で交代したさ

しかし、彼らが得た給金は彼ら自身が手にするのではなく、お供えとして教会へ捧げられた。それが天理教の仕組みでもあった。

新聞紙法

満洲天理村

国民精神の歌と天理教

海拉爾支部谷崎等証言2017年12月18日

731問題

731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である???

国家の面子の為に、残虐な行為は隠蔽する??

黒い太陽15

機密とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。

戦前の刑法には、敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ(第85条)という規定があった。

朝枝繁春の証言

今の日本は、あの侵略戦争の事を忘れようとしているのではないか?

ある政党は、あの侵略戦争を自存自衛のための戦争などと公然と言っている!!

裕仁は、東条や陸軍に、戦争責任を押し付け、

今の政府医学界は、中国、アジア諸国で、戦争被害の後遺症に悩む人を完全に無視している!!

人体実験、遺棄毒ガス弾、炭疽菌ペスト菌等による被害者、慰安婦、空襲虐殺原爆等で被害にあった人のPTSDなど。

日本国民だって例外ではない!!

戦時中に起きた食中毒赤痢の事件事故と新宿の軍医学校731の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??

実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。

1935年昭和10年鳥取で食中毒発生4人死亡、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校西俊英

1936年昭和11年浜松で食中毒発生患者数は2250人、46人が死亡、原因ゲルトネル菌、防研嘱託731小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。

紅白の殺戮者

1937年昭和12年大牟田爆発赤痢事件患者数は12332人、712人死亡以下の事は関係ないのか?

事件当日の三井三池染料工業所における爆発事故

また当時の新聞記事や調査において、

三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと

2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと

患者はまず咽喉を侵されたこと赤痢ならば咽喉がやられることはない

市内で人が次と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること

などが分かっている。

当時の時代背景として、2月前には満州事変が勃発して戦下の色が濃くなってきており、事実この工業所では枯葉剤、合成染料など軍需製品の製造を行なっていた。このため、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。

しかし、仮にクシャミ性毒ガスの製造工程で爆発事故があったことが原因としても、住民の便から赤痢菌が検出されており、また調査に参加した各大学が患者の便から検出した赤痢菌がそれぞれ異なった種類であったことが分かっており、疑問が呈されている。

一方こんな説もある。毒ガス爆発をカモフラージュするため、軍医学校が、赤痢予防錠を配ったというもの??

日本軍の毒ガス戦と軍需化学企業の戦争責任

小津安二郎は、日中戦争で野戦ガス中隊に従軍し、鬼軍曹と呼ばれていた。

小津の作品には、汚いものを排除し、美しさのこだわりがあるという。

東京物語のヒロインだった原節子は、戦意高揚映画に数多く出演している。

TokyoStory(1953)

参考陸軍軍医学校50年史1936年

陸軍軍医学校50年史1936年より

大牟田爆発赤痢事件

日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業

小島三郎

紅白の殺戮者昭和十一年浜松一中毒大福もち事件

作者久保親弘

紅白の殺戮者くぼちかひろ

第十二章

一方衛戍病院では三好野の菓子が原因で発症したと思われる患者は入院二三名入室一九名という数に上っていた。その内のほとんどは飛行第七聨隊の所属であった。ゲルトネル氏菌による食中毒についての陸軍の診療指針が当を得ていたのか重症者はほとんど見られなかった。

今、改めて考えると、やはりこの食中毒に軍医学校の関与があったのではないか?

石井がわざわざやって来て、人為的細菌感染の有無を調べる??この食中毒のすごさから言って、普通では全くない!!軍医学校の関与が無かったのか?何で、糞便検査を一中生にはしなかったのか??

1936年にはハルピンの郊外平房に正式に関東軍防疫部731部隊が設立される。

北野政次は最初から目星をつけていた?その前年にゲルトネル菌が食中毒が発生している?

小島三郎の記述

小島三郎ウキペディア

小島三郎こじまさぶろう、1888年明治21年8月21日-1962年昭和37年9月9日は、日本の医師。医学博士。

岐阜県各務原かかみがはら市出身。

小島三郎

医学者たちの組織犯罪常石敬一著より

メリットと業績

細菌が特定できればそれで食中毒であることが確定する。細菌を特定するためには、事前にその細菌を保有していることが早道となる。保有している細菌でその免疫血清を作っておき、その血清と分離された原因と思われる細菌とがどう反応するかで、菌の同定が行われるのである。当時軍医学校では腸チフスコレラ赤痢、ペストについて診断用血清を作っていた。

検証中国における生体実験(美馬聡昭著より

小泉親彦と昭和天皇

小泉親彦(東大、1908年卒)は、東大の不真面目な医学生であった。時教室から抜け出し、よく汁粉屋に行っていた。当然彼の成績はよくなかった。彼は1908年東大を卒業した。

卒後は陸軍に入隊。1910年には軍需工場で働く者の生活実態を調査し、工人の生計および衛生、1916年には日射病の本態に関する実験的研究を発表し、東京医学会(東大医学部卒業生の会)から、両論文とも優秀論文賞を受賞している。1914年6月、30歳で陸軍軍医学校の衛生学教室教官に任命されている。このとき一時毒ガスの研究に走り、1918年には毒ガスの防毒マスクの試作品をつくり、自ら生体実験を行ったが、排気室不備のため瀕死の重態になった。

いつの間にか始まった石井部隊常石敬一人骨の会代表

テロリスト伊藤博文の懺悔

731部隊の前身である背陰河の部隊では、結核予防注射の人体実験が行われていた?

結核予防接種と人体実験

日本は、731部隊での研究を白日の下にさらすべきである。

1936年に起きた浜松の大福もち事件の経過

1936年5月10日浜松一中で運動会が開かれる。

5月11日午後、食中毒発病

軍医学校では5月12日午後から北野や防疫学教室で研修中の西俊英軍医大尉(当時)らが原因究明に取り組んでいた。軍医学校の発表は次の通りだった。

患者4例の糞便中よリゲルトネル氏菌と認むべき菌を証明し、之に因る中毒の疑濃厚となり尚細菌以外の毒物は目下の所証明し得ず。

本当に素早い軍医学校の対応ではないか??東京から浜松は当時列車でも時間はかかっただろう。

小島三郎は食中毒発生の前年、1935年9月に東京大学伝染病研究所の助教授から教授に昇任したところだった。同じ頃、防研の嘱託に就任したものと推測できる。

前年の1935年昭和10年鳥取で食中毒発生4人死亡、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校西俊英小島が防研の嘱託になった年。

果たしてこの食中毒はどのように発生したのだろうか?防疫研究室は関係していないのか??不思議なことに軍の関係者の感染者からは誰一人死亡したものが出ていない!!軍の謀略ではないのか??

陸軍飛行第七聨隊が新たに浜松に開隊しついで高射砲第一聨隊も設置された。昭和八年になると浜松陸軍飛行学校が開校し浜松は陸軍航空部隊のメッカとして知られるようになった。浜松陸軍衛戍病院の場合ほとんどの軍医は飛行第七聨隊附か陸軍飛行学校附もしくは高射砲第一聨隊附であった。

小島三郎が、防疫研究室の嘱託になり、お金をもらって研究したという事は、細菌戦に大きくかかわっていたという事だろう!!

ゲルトネル菌は、広東の8604部隊部隊で使用されたようだ。

8604部隊南支那派遣軍の防疫給水部の1課の丸山茂証言に、同僚がお粥にそれを混入して、多くの難民の中国人を殺害したという証言をしている。

三井という会社

毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤の原料を作ってニュージランドのメーカーを通じてアメリカ軍に提供されていた。アメリカの枯葉剤の3分の1は日本製だと言われている??

ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大

化学兵器とアジアー現在進行形の加害と被害を考える!!

枯葉剤の製造では、ネットには、こんな記述もある。

731部隊直系のミドリ十字を内部に組み込んだ三菱ケミカルホールディングスの前身である三菱化成は、ェトナム戦争における枯れ葉剤作戦の主役、モンサント社と組んでいたのである。

毒入り油で手料理母悔恨知らなかったごめんね許して家族全員発症カネミ油症50年の証言

カネミ油症事件

カネミ油症事件ですが、カネミ倉庫とカネカに責任はあるのですか?

PCBは三井グループのカネカが製造していた。

PCBポリ塩化ビフェニル:鐘淵化学工業製造

2004年平成16年鐘淵化学工業株式会社から株式会社カネカに商号変更。

横浜マンション傾き問題、施工3社を提訴三井不動産

護衛艦などを作る!!軍需会社!!

三井造船が建造した船舶

イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた三井財閥とそれに協力した医学界の権威者たち

萩野昇戦争中、軍医としてどんなことをやっていたのだろうか?

2015年

偉人医萩野昇

萩野昇富山のシュァイツァー

富山平野の中央部を流れる神通川は昔から神が通る川として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか毒の通る川に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。

いわれなき中傷

しかし学会では悪意に満ちた質問が相継いだ。なぜ中年女性に多いのか、骨以外の臓器障害が少ないのはなぜか、動物実験をしていないのにカドミウムが原因といえるのか。このような質問に対し、萩野はひとつひとつ丁寧に答えていった。萩野の回答は正確なものであった。にもかかわらず結果的に難癖に近い非難を受けることになった。データそのものが間違いであると非難され、田舎の開業医の売名行為、神岡鉱業所から金をとるための行為と邪推された。学者でもない田舎の開業医に何が分かるという先入観がその根底にあった。高名な学者たちのほとんどが萩野の研究を非難した。これだけ世間の注目を浴びている萩野の研究を素直に評価する医師は少なかった。また支持する医師の声も聞こえなかった。イタイイタイ病に対する世間の注目が高ければ高いほど、学者として萩野の研究に嫉妬する気持ちが生じたのである。ある週刊誌では萩野昇は学者でない、科学的証明が何一つなされていないと高名な学者が非難した。神岡鉱業所は萩野学説は実証のないひとりよがりの考えと反論した。

萩野さんは、戦争中どんなことをしたのだろうか??

金沢は731部隊に縁が深い!!731部隊長の石井四郎、その右腕だった増田知貞、生体解剖を多く手がけた石川太刀雄は、金沢四高から京都帝国大学医学部へ進学した。

731部隊で性病や結核の人体実験をして、戦後政界ジープという右派の時局雑誌を発行した二木秀雄も金沢医科大学出身である。

三井造船防衛省から新型潜水艦救難艦を受注日本工業新聞

日本軍が中国で行った細菌戦

細菌戦パネル展731部隊のやった細菌戦

細菌戦被害地中国の旅

現代も受けるがれている731部隊の思想??

話は今につながっている!!

最先端の技術を日本は持ったわけですね。人体実験やるわけですから。それを米軍が引き継いだと。それから細菌戦の恐怖というのは今もって続いているわけでして911の後に炭疽菌の騒ぎがありましたね。これも石井部隊研究してたわけですからね。それからもう1つは薬害エイズで話題になったミドリ十字というのはこの石井部隊の部下たちが作った会社。つまり今につながっているんですね。いろんな話が!!

石井四郎の戦後

アメリカの原爆投下を訴える!!

ヒロシマからフクシマへ

戦後放射線影響調査の光と影

堀田伸永

当時の日本アメリカ政府は、原爆の悲惨な惨状を国民に隠した!!

第3章残党の系譜

公職追放されず

731部隊の各部の責任者ら幹部は、1945年の8月末には帰国していたといわれているが、宮川正の復員時期は明らかではない。宮川は、敗戦後、東京帝大医学部の放射線教室に戻ることもなかった。前述の宮川の略歴によれば、敗戦の翌年の1946年に逓信省病院から医師としての再スタートを切ったとされる。ちなみに、職員とその家族限定の職域病院であるはずの東京逓信病院には石原莞爾が同年8月まで膀胱癌治療のために入院し、院内でGHQの尋問を受けた記録がある。

放影研被爆者に謝罪へ時代、治療せず研究

731部隊の免責を得る為に、日本はアメリカに原爆調査原爆の効力の調査のデータをアメリカに渡した。

なぜ、日本は原爆投下直後、調査をやったのか?

宮川正大正2年2月8日生、昭和12年東大医卒、昭和19年3月4日入隊、歩兵30連隊から731部隊レントゲン班宮川班に配属される。終戦時軍医中尉。731部隊には、レントゲン班が宮川班在田班の2つあった。元隊員の話では、どちらの班か不明だけれどもレントゲン班で、マルタの肝臓にレントゲンを照射して、どこまでやると死に至るかという実験を自分たちでやったことがあるという証言がある。、

東大医学部放射線科宮川正教授は退官記念講義で731部隊員だったことを曝露追及された

世界は恐怖する死の灰の正体亀井文夫監督

水俣病原因究明を妨害し被害を拡大させた日本医師会会長田宮猛雄は、731部隊や戦後の人体実験にも関与した

彼の死後、追悼文集が出版されたが、その中で北岡正見、安東洪次、目黒康雄、田嶋嘉雄など

731関係者が勢ぞろいして思い出を語っている。

731部隊マラリア菌研究班に所属していた目黒康雄は、軍医として戦地に送られるところを

田宮の計らいで防疫給水部731部隊の別名の職を斡旋してもらったと語っている。

田宮は徴兵逃れをエサに教え子を731部隊へ送り込んでいたのである。

日本政府は、アメリカと取引して中国で行った人体実験細菌戦毒ガス戦の資料を戦後国民に隠し続け、は、原爆投下直後の原爆の影響を調べさせ、情報は隠蔽し、治療などはしなかった!!

軍学共同の道

通訳米は強引によこせと持ち去られた被爆者資料

帝国の骨

歴史認識問題は現在もアジアの国際関係を揺さぶる。インターネット上では国境や民族とは何かを巡って悪意と中傷が飛び交い、立場の違う人たちが互いにフェイク、偽りだと罵倒し合う。戦争の記憶を巡る報道機関の在り方も批判の対象になっている。戦後73年、当事者の世代が去る中で、歴史資料の重みは増す。かつての帝国大学は、文字通り帝国のための大学だった。皇国日本の版図がアジアに広がると、そのために学知が動員された。いや、学問の側が突き進めた面があるかもしれない。京都帝国大医学部病理学教室の歩みは、世界史的な暗部に深く関わっている。足元の京滋に、どんな資料が放置され、眠っているのか。だが、あるはずの資料にアクセスできない。風化とは違う新たな壁が行く手を阻む。

驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く